ヨガと毎日の生活ってどういう関係が?

今日、生徒さんとのセッション後に書くことにインスピレーションがわかされました。

受けた質問は、「子育てや家賃の支払いなど日常生活とスピリチュアル、ヨガの関係が見極めることができない」との相談でした。

私も自分自身、家族を持つ前に何度も自問した質問です。

事前に言っておきたいのは、私は、決して家族を持つことを推奨しているわけではありません。実際、強く、子供を育てたいと感じないのであれば、絶対におすすめはできませんね。それはあなたが人生で経験する最も困難なことだから。

私も思い出せるのは産後3日目、ベッドに横たわってまだ完全に疲れ切っていましたが、トイレに行くために立ち上がろうとしたところ。体がとても弱く感じ、トイレによろめきながら行きました。こんなに基本的で簡単なことがとても難しく、その後、号泣。以前にいた私の一部が死んだように感じ、これが誰の体なのか、自分が一体誰なのかさえわかりませんでした。2年後、体は完全に違っていましたが、やっと古い自分の小さな火花を感じ始めました。5時に起きて60-90分間のヨガの実践に専念していた以前の自分を遠くに見て、子供が小さい間は5時に起きても、ヨガのためではなく、子育てに疲れ果てていたところ。

今年、息子は9歳になり、やっとそのスペクトラムを見ることができます。現在の自分につながった、過去と現在の自分がやっと繋がって見えるスペクトラム。

 

私たち、人間とはしばしば、自分たちのアイデンティティを失うことを恐れる傾向があります。罪悪感や恥のために自分自身を忘れたいと思っている人でさえも、自分自身や過去の自分に対する執着を持っています。環境、仕事、関係性の小さな変化を耐えることはできるかもしれません。しかし、私たちが誰であるかという考えは、非常に尊く、神聖なものであるため、自分自身の中で強い執着を発達させます。ヨガではこれを「アハンカーラ」、つまり「私」を作り出すことと呼びます。これは、ヴェーダの伝統によれば、マインドの機能の一つです。

「ヨガ教師、母親、娘、日本人、家は沖縄にありながら人生の半分をカナダで過ごした…」といった単純な自己認識は、変化があると私たちが適応するのに時間がかかるほど、我々に根深く感じられます。これを私の『A Course In Miracles』の先生は「私のストーリー」と呼んでいました。自己の物語を語る際、無意識のうちに「私らしくない」として機会を避けがちですが、同時に危険や後悔を避け「安全を保つ」こともあります。しかし、予期せぬ出来事がなければ人生はどうでしょうか?予期せず恋に落ちたり、大幅な昇給を得たり、思わぬ罠にはまって莫大な請求書が届いたり。これらすべての予期せぬ出来事には共通点があり、人との関係性の形で現れます。他人との関係、パートナー、子供の校長先生、空港のセキュリティの人との関係など、人生は関係性なしには成り立ちません。そして、これら新旧の関係から生じる予期せぬ出来事は、アハンカーラ(私のストーリー)のための心のフォルダーを作成します。

では、これがヨガと日常生活を送ることとどのような関係があるのでしょうか?私の教師であるマイケル・ストーンはこう言っていました。

「人間関係こそがヨガの実践。プラクティスは、後で勉強してからやってみおう、じゃなくてこの相互に繋がる存在―あなた、私、水、木、カード、風、そして呼吸の中、(全てこの瞬間に起こること)にあります。」

もしアシュラムや寺院で生まれたら、そこがあなたのDharmaであるのは当たり前です。もし両親と共に村や都市で家族として生まれたなら、そこがあなたのDharma。あなたが今いる場所がヨガの練習の場(Dharma)です。必要なことを行い、不要なことはしない。その瞬間に何が必要かを見極めることがヨガの実践の一部です。家賃を支払ったり、子供を学校で迎えたり、ベッドを整えたり、全心を込めて行う。それが家庭人のヨガです。これは、私たちの普通の生活と精神的な実践を分けないヨガの実践です。これはヴェーダやタントラ系統に基づく伝統です。家族のために料理をしたり、朝瞑想する際には、それらふたつのあなたの姿に分離はありません。それらはあなたが誰であるかの同じスペクトラム上にあり、一方がなければもう一方も存在しません。言い換えれば、どんな選択をするにしても、全心と同じ献身でそれを行い、その結果に向き合うなら、それ以上にヨガ的で神聖なことはありますか?普通の生活を再編成して精神的な実践のためのスペースを作るべきだと言う人もいますが、私は逆だと信じています。スピリチュアリティは私たちの普段の日常生活にシームレスに融合すべきです。

Read more about yoga, herbs and life